酔っぱらうと決まって「俺はいつか独立する」と言い出す人は、サラリーマンをやっていれば、一人や二人は知っていると思います。
私のサラリーマン時代の先輩にも、お酒が入ってくると、「俺はいつか独立する」、「俺が本気出せば絶対に成功できる」、「これからのビジネスは○○だ!」と始まってしまう先輩(大先輩)がいました。
しかし、いつまで経っても、独立する気配はありませんでした。
「俺はいつか独立する」って妄想するのは、現状の不満のはけ口としては、なかなか優れものだと思います。
まあ、酒の席の話なので、「また始まったよ」という感じで聞いていました。
当時の勤務していた会社の業種は、建設分野の技術コンサルタントでしたが、その先輩は、なかなかチャレンジャーで、構造(橋梁など)が専門で技術士(建設部門)も取得し、また、仕事でも専門分野以外の新規分野進出にチャレンジしたり技術者として優秀で会社からも評価されていました。
中小企業診断士にも挑戦したそうです(一次試験で断念したそうですが)。
日本の建設市場規模というのは、2000年代初頭がピークで、そこから10年もしないで一気に半分まで縮小したのですが、その間の建設業界というのは、それは大変な状況でした。今まで何十年も右肩上がりで来て、世の中、そういうものだと思っていたところに、ある時から突然、毎年、売上が激減していくのです。
特に、中堅規模の企業への影響が大きく、多くの企業が消えましたし、存続したところも、何度か破たんし、オーナーが何度も変わりながら、社員を半分以下に減らして生き残っています。
社員が半分に減る過程も、大企業のような希望退職で退職金上乗せといったものではなく、年収が半減するような状況で内製化を進めたため業務はより厳しくなり、人間関係も崩れて、人が次々に抜けるような形であり、各社、阿鼻叫喚と言う感じのところが多かったのです。
さて当時の私の勤務先も、業界中堅レベルでしたので、上に述べた通りの状況になりました。
当時の私などは、社長の声掛で、若手グループからの経営改革提案のリーダーをすることになり、調子に乗って、あれこれ現実的な提案をしてしまいましたが、これが、一切受け入れられないどころか、社内権力に挑戦する形になってしまい、管理職グループから目の敵にされ、社内でバッシングされるようになってしまいました。人間のドロドロしたものに直面し早々に見切りをつけて会社を辞めました。 ※私が中小企業診断士の勉強を始めるきっかけです。
さて「俺はいつか独立する」の先輩ですが、管理職グループの一員として、この後に及んで、「大手と技術競争をして勝つ」という実現不可能なお花畑的な経営改革案を掲げて、玉砕の道に踏み込んでいったのです。
そして文字通り、会社は、玉砕し、解散、廃業となりました。 もうアホなんですかね。
その先輩は、勤務先が無くなると決まって「独立するチャンス」と思いきや、同業の大手の会社に転職しました。解散すると聞きつけた同業者が集まってくるのですね。残り物には福があると言いますが、最後まで残るといいことあるようです。
それはもう有頂天で、自慢されました。建設大不況当時に大手企業に年収1000万近くで、管理職採用なのですから気持ちも分からないでもないですが、そうやって苦労している昔の同僚たちに自慢して激怒されたりしていました。
そして、その先輩は、転職先で早く認めて貰おうと、死に物狂いで頑張り、それなりの結果を出して会社の上層部も評価してくれたそうです。
ところが、最初から管理職入社でもあり、上層部の覚えもよいことから、周りの同僚と軋轢が生じて、様々な人間関係の問題に悩まされるようになり、激務も重なり3年目に限界に達して、心身ボロボロになって会社を逃げるように辞めました。
その先輩は当時55歳、人生で初めて、職も肩書もステータスも収入も失って、しかも家庭もある状況で、不安で一杯ですが心身ボロボロで何もやる気が起きません。まさにどん底状態です。
その先輩は、家に籠っていたらダメになると分かっていたので、昼間は公園で日に当たってぶらぶらしていました。
一か月もすると少し元気がでて、筋トレや、ジョギングなど体を鍛え始めました。そんな生活を続けて半年後、気力体力充実するのを感じたそうです。人間の回復力はなめちゃいけません。
その先輩は、今度こそ「独立」すると思いきや、知人の誘いで、海外開発コンサルタントに就職しました。
ちなみに先輩は、海外経験ゼロで、英語も話せませんでした。
そこでの仕事は、ODAで、紛争が終わったばかりの地域の難民再定住のための、灌漑施設、道路等のインフラ整備支援をすることでした。
危険な地域での仕事、年収は大幅ダウンで、不安定な契約社員です。安全な国内で、ずっと年収の高い転職の可能性があることを考えると、リスク的にも収入的にも割に合わないと思います。
しかし、55歳でそのハイリスクな選択をしたのです。
それから3年間、現地の人達と協力してインフラ支援に奮闘し、貴重な経験を積みました。
途上国で日本人は一人、朝から晩まで英語漬けで、必死に勉強したそうです。
すると、その3年間で英語力ゼロから、かなりの英語力になっていました。おまけにフランス語も言っていることなら大体分かるというのです。
この時、58才を過ぎて、60才も目前、60歳になれば、年収はさらに大幅に切り下げられる可能性があり、その先輩は、この後をどうするか考えていました。
丁度その時に、外資の世界大手の技術コンサルタント会社より、私のところに人材の引き合いが来ました。
そこで、その先輩に、紹介し、受けることを勧めました。
面談に同行しましたが、会社の偉い外人さんと英語で普通にしゃべっていました。
そして、なんとヘッドクオーター採用となりました。通常ではあり得ないようです。
年収も大幅アップ、60代過ぎてもやることやっていれば報酬は下がりません。(ダメならクビですが)
その先輩は、元々、技術対応範囲が広く、開発から建設分野の計画設計が一通り対応できる人材として重宝されました。
そして外資コンサルで、日本国内における発電施設などの民間インフラプロジェクトのコンサルタントとして活躍しました。
※ご存知ない方が多いと思いますが、外資ファンドや、財閥などが出資して国内でインフラ事業をやっています。
外資コンサルの仕事というのは、出資者や銀行の代わりに事業の企画から運営管理まで行いますが、そこにはファイナンスの専門家から経営コンサル、各専門技術者まで幅広い人材が集まっています。様々な国のエンジニアが混ざって働いています。
最高レベルのエリートや、起業経験者や変わった人もいます。いろんな人に触れている内に、とうとう本当に「独立」したくなったそうです。
突然、私のところに、その先輩から「もう外資コンサル辞めて、独立して会社設立した」と連絡が来ました。
「独立するする詐欺」だった先輩が、事後連絡として、既に辞めてもう独立しているというのです。
この時、62才、年収1000万近くいただいていて勿体ない話です。
そこで、私が創業支援することになりました。地方の会社で技術指導できる人材の要望がありましたので、早速紹介しました。そこでは、東京支社を自由に使う権利を与えられて、技術指導や人材育成で活躍しています。
さらに外資コンサルタントの顧客であったアジアの財閥の顧問となったというのです。
そこから、某外資インフラ投資銀行から年収2000万で誘われたけど、大変そうだから断ったというのです。なにそれ~
その先輩は、60代にしてコンサル会社経営者で、財閥顧問等、普通では考えられない活動をして、自由度の高い生活、年収1000万以上を達成したのでした。
次の展開も考えているとのことで、今でも時々私と作戦会議(飲み会)をしています。
その先輩は、飲むたびに「今が一番充実している」、「こんな世界があるなんて知らなかったんだ」、「あと10年早く気づいていれば」とぼやいています。まあ、人生満足で一杯そうですが。。。
その先輩の人生を見てみると55歳の、心身ボロボロで会社を辞めて、一度、どん底に落ちてから、明らかに行動に変化が見られています。
どん底だった当時のことを、「不安で一杯だったけど、今思うと楽しかった」「もう健康さえあれば何も怖くないや」といっています。
ステータスや、ライバルとの相対的評価にこだわっていた人物が、一皮むけた瞬間と言えるでしょう。
そして、いろいろリスクのある挑戦をしだして、さらに成長していったのです。
人間って、一度どん底に落ちないと変われないものなのかもしれません。
先に全く希望を持てず、次の人生の展開に動き出す気力もない、そこで、希望は見えなくても歩き回って体を鍛える。そして、人生を見つめなおす経験というのは、何物にも代えがたいものになります。
企業内の中小企業診断士の人も「いつか独立する」という人が多いのですが、「独立するする詐欺」でも悪くないです。
どんどん独立の妄想を膨らませて、研究し、アンテナを高くして暮らしましょう。
社内でやれることは、どんどん挑戦していけばよいと思います。
そして、中小企業診断士という懐刀は磨いておきましょう。
人生何があるか分かりません。
リストラ、不況などで、強制的に飛び出さざる得ない状況に陥ることだってあるでしょうし、いろんな事情で、どん底に落ちることもあるかもしれません。
そんなときに、独立の妄想を膨らませておけば、この先輩のように幸せな人生を歩めると思います。
ご参考になれば幸いです。
このコラムをシェアしていただけると嬉しいです。